社長の肖像

初代・津村重舎                             
初代・津村重舎(1893~1941)

初代社長

1871年8月20日(明治4年7月5日):大和(奈良県)で生誕
高等商業学校(現一橋大学)中退。出身の大和(奈良県)から上京し、
1893年:中将湯本舗津村順天堂を創業、日本橋に店を構えて婦人用煎じ薬中将湯の販売を始めた。
また郵便報知新聞に広告を出し、
1895年:には日本で初めてガスイルミネーションを用いた看板を掲げた。他にもアドバルーンを活用するなど、様々なアイディアで広告・販売促進戦略を行い、後に「PRの天才」と呼ばれるようになった。
1893年(明治26年):中将湯本舗津村順天堂創業。婦人用生薬製剤「中将湯」の生産販売を開始。
中将湯広告 1900年(明治33年):くすり湯浴剤「中将湯」発売
中将湯温泉 1904年(明治37年)3月:東京市会議員
1905年(明治38年):株式会社東亜公司(取締役のち取締役社長)
1905年(明治38年):日本売薬株式会社(取締役)
1916年(大正5年):合資会社アーセミン商会(第一製薬の前身(現第一三共株式会社))(代表社員)
1918年(大正7年)6月:東京市参事会議員
1919年(大正8年):目黒工場竣工
1920年(大正9年):上海油脂工業株式会社(粉川広吉が設立)の監査役に就任
1920年(大正9年):江東製薬株式会社(榊原常吉、田辺五兵衛が設立)の取締役社長に就任
1922年(大正11年):東京軽量器製作所の代表取締役に就任
1924年(大正13年):漢方生薬の研究を目的として津村研究所と津村薬草園を設立
1925年(大正14年)-1936年(昭和11年)貴族院議員
二・二六事件の反対演説で貴族院議員を辞任
1926年(昭和元年):学術雑誌「植物研究雑誌」(主宰:牧野富太郎)を創刊
牧野富太郎

牧野富太郎(1862~1957)

1927年(昭和2年):社団法人日本橋倶楽部の理事に就任
1928年(昭和3年):銚子醤油(現ヒゲタ醤油)の監査役に就任
1929年(昭和4年):日本広告倶楽部設立時の理事長に就任
1930年(昭和5年):芳香入浴剤「バスクリン」の生産販売を開始
1936年(昭和11年):株式会社化
1939年(昭和14年):株式会社加藤製作所の経営に参画
1941年(昭和16年)4月28日:70歳で死去。

その他
ツムラ2代目社長も津村重舎(2代目重舎襲名前の名は基太郎)である。
実の兄、山田安民は信天堂山田安民薬房(現ロート製薬の前身)の創業者。

二代目・津村重舎                             
二代目・津村重舎(1941~1976)

二代目社長

1908年:初代津村重舎の長男として東京都日本橋に生まれる。
1934年:慶應義塾大学経済学部卒業
1935年12月:兵役(近衛第一連隊入隊)
1936年:津村順天堂が株式会社に改組、兵籍のまま取締役に就任
1937年:除隊
1941年:初代津村重舎の死去に伴い、二代目重舎を襲名、津村順天堂および東亜公司の社長に就任
1944年:応召、成田無線通信隊に配属。11月近衛師団司令部に異動。
1945年9月:復員
1946年4月:経済同友会設立発起人
1947年1月:日本生薬学会賛助会員
1947年8月:東興薬品商事設立、社長就任
1950年3月:日本東洋医学会賛助会員
1950年7月:津村建物設立、社長就任
1951年1月:津村交易設立、社長就任
1957年10月:中将湯ビルに漢方診療所開設、医療法人金匱会設立(翌年1月認可)、理事長就任
1959年4月:漢方友の会設立、理事長就任
1965年5月:東京都家庭薬工業協同組合理事長就任
1966年2月:全国家庭薬協議会会長就任
1967年6月:東京都薬事審議会委員就任
1970年7月:東京生薬協会会長就任
1972年:漢方友の会の事業を継承・発展させた日本漢方医学研究所設立、理事長就任
武見太郎は、漢方医学に関心を持ち、自ら処方した漢方薬を常用していた。 自らが漢方薬の愛用者であった武見は、漢方医療を保険診療に組み込むことを厚生省に働きかけ、70種類の漢方薬を大臣告示で薬価基準に収載させた。 関連して、北里研究所附属東洋医学総合研究所の誕生にも、武見が寄与したことが知られている。 1976年2月:社長退任、会長に就任
1976年9月:津村順天堂の医療用漢方製剤が保険薬に指定される
1979年8月:漢方生薬剤研究会会長就任
1983年7月:日本漢方製剤協会会頭就任
1995年(平成7年)6月:相談役に就任 1997年(平成9年):88歳で死去。

生薬四方山話                             
津村昭(1976~1995)

三代目社長

1936年:生まれ
慶應義塾大学法学部卒後、米国バッファロー大学、ミシガン大学留学
1960年:第一製薬入社
1966年:第一製薬退社
1966年:㈱津村順天堂入社
取締役宣伝部長、常務取締役を歴任
1976年9月:津村順天堂の医療用漢方製剤が保険薬に指定される。医療用漢方製剤33処方が薬科基準収載
1976年:津村昭が三代目社長に就任
1978年:株式公開
1982年:東証一部上場
1983年:富士枝急送株式会社(現株式会社ロジテムツムラ)に出資
1983年:茨城工場竣工
1983年:日本生薬株式会社を設立
1986年:千代田区二番町(通称:麹町・日本テレビ放送網麹町分室向かい)に本社竣工、移転
1986年:入浴剤「日本の名湯」発売
1987年:医療用漢方製剤147処方が薬科基準収載
1988年:社名をツムラへ変更
1990年:深セン津村薬業有限公司を設立
1991年:Pacific Marketing Alliance,Inc.をパルタックとの合弁で設立(後にマンダム、エステー化学、太田胃散、キンカンも出資)
1991年9月:「How the Japanese Updated Traditional Herbal Medicine」出版 ※How the Japanese Updated Traditional Herbal Medicine
1992年:ツムラ日本漢方記念館開館
1997年:創業一族の津村昭(元社長)が巨額債務保証で特別背任罪で逮捕(ツムラ事件)。

風間八左衛門                             
風間八左衛門(1995~2004)

四代目社長

1995年:風間八左衛門(初代津村重舎の孫)が四代目社長に就任
1996年:3月小柴胡湯事件
1997年:創業一族の津村昭(元社長)が巨額債務保証で特別背任罪で逮捕(ツムラ事件)。
1999年:行動勲章「ツムラスタンダード」を制定
2000年:上海津村製薬有限公司を設立
2000年:TSUMURA USA,INC.を設立

芳井順一                             
芳井順一(2004~2012)

五代目社長

2004年:創業一族以外で初の社長誕生(芳井順一)
2005年:日本生薬株式会社を吸収合併
2006年:家庭用品部門を会社分割により分社化(社名:ツムラ ライフサイエンス株式会社)。本社ビル及び六番町ビルを売却
2007年:港区赤坂に本社を移転
2007年:Pacific Marketing Alliance,Inc.の持分をJFC INTERNATIONAL INC.(キッコーマングループ)へ売却。
2008年:家庭用品を扱う子会社であるツムラ ライフサイエンス株式会社の全株式を投資ファンドのWISE PARTNERSへ売却し、同社はツムラから独立。
2009年 :ツムラ ライフサイエンス株式会社はWISE PARTNERSの子会社と合併し、ツムラ ライフサイエンス株式会社の現経営陣や従業員の一部が自社株取得 (MBO) により資本参加。
夕張ツムラを設立
2012年:6月28日取締役会長に退く。今年で65歳の社長定年を迎える芳井氏は、「社長在任中の8年間で、大学のほぼ全てに漢方医学の教育を取り入れることができた。ツムラが目指す西洋医学と漢方医学の融合が、ほぼ達成に近いところまできた」と成果を強調。
 さらに、新社長に加藤氏を起用した理由については、「経理に明るく、米国子会社の社長として、短期間で事業を軌道に乗せた経営手腕がある。ツムラの役員の中で最もバランス感覚が秀でている」と高く評価した。
2017年:3月14日 死去 69歳 葬儀は近親者で執り行われる。

加藤照和                             
加藤照和(2012~)

六代目社長

2012年:6月28日新社長誕生。、「芳井社長の経営方針を踏襲し、医療用漢方製剤のリーディング企業として役割を果たしていきたい」と抱負を述べた。
 また、今後取り組む事業課題として、
▽高齢者医療における漢方医学の浸透
▽国内での生薬栽培
▽漢方薬のエビデンス構築
▽人材育成
――の四つを挙げ、これら施策の実現に向け、「漢方医学の重要性が増す中で、意思決定のスピード感を大事にしていきたい」と抱負を語った。

1963年8月生まれの48歳。86年3月に中央大学商学部卒業後、4月に津村順天堂(現ツムラ)入社、01年8月にツムラUSA取締役社長に就き、06年1月に広報部長、11年6月から取締役執行役員コーポレート・コミュニケーション室長を務めていた。

 株式会社 ツムラ

Tsumura & Co. 種類 株式会社
市場情報 東証1部 4540

本社所在地 〒107-8521
東京都港区赤坂二丁目17番11号
赤坂シグマタワービル[1]
設立 1936年4月25日
業種 医薬品
事業内容 医薬品、雑貨品などの製造販売
代表者 代表取締役社長 芳井順一

資本金 194億8,700万円
(2009年9月30日現在)
発行済株式総数 7,077万1,662株
(2010年9月30日現在)
売上高 単体846億74百万円
連結900億16百万円
(2009年3月期)
営業利益 158億20百万円
(2009年3月期)
純利益 91億39百万円
(2009年3月期)
純資産 連結724億11百万円
(2009年3月31日現在)
総資産 連結1351億46百万円
(2009年3月31日現在)
従業員数 単体2,205名、連結2,631名
(2009年3月31日現在)

決算期 3月

主要株主 日本トラスティ・サービス信託銀行 13.22%
日本マスタートラスト信託銀行 8.16%
三菱東京UFJ銀行 3.81%
(2010年9月30日現在)
主要子会社 関連会社の項を参照
関係する人物 津村重舎
外部リンク http://www.tsumura.co.jp/

株式会社 ツムラ (Tsumura & Co.) は、東京都港区赤坂に本社を置く漢方薬品メーカーである。1893年創業。
コーポレート・スローガンは「自然と健康を科学する」で、かつての津村順天堂時代には「漢方を科学する」を名乗っていた。


 概 要

大和国(現在の奈良県)に生まれた初代津村重舎が上京し、日本橋に漢方薬局を開いたのが始まり。津村が故郷から受け継いだ秘薬を元に改良され、創業と同時に、婦人保健薬「中将湯」を発売する。
1900年:中将湯を精製する過程で出るくずを従業員が持ち帰り風呂に入れたところ、夏のあせもが消え、冬には体がよく温まるという経験をヒントに、「くすり湯中将湯」を発売する。さらにこれを改良・研究の結果を得て「バスクリン」となる。
1907年:胃腸薬「ヘルプ」を発売する。 胃腸薬「ヘルプ」


1936年に改組。当初の社名は株式会社 津村順天堂だったが、1988年に「ツムラ」に変更する。

現在では、医療用漢方薬で日本国内シェアの8割以上を占める(2007年9月末現在)。また、一般用医薬品(OTC)の漢方部門でもクラシエ薬品などとシェアを寡占する(業界3位)。

入浴剤「バスクリン」シリーズ、ヘア・ケア商品「モウガ」シリーズをはじめとする家庭用品部門については、2006年10月よりツムラの100%子会社であるツムラ ライフサイエンス株式会社(現・株式会社バスクリン)に引き継がれた。1980年代には事業拡大を目的に「ツムライリュージョン」という名称でサーカスを日本国外から呼んでいた。さらに「ツムラ化粧品」も展開していたが、後に撤退し、特別背任事件が起こっている。

 沿 革

1893年:初代津村重舎が津村順天堂の商号で創業。婦人用生薬製剤「中将湯」の生産販売を開始。
1900年:くすり湯浴剤「中将湯」発売
1907年:胃腸薬「ヘルプ」を発売する。 1919年:目黒工場竣工
1924年:漢方生薬の研究を目的として津村研究所と津村薬草園を設立
1926年:学術雑誌「植物研究雑誌」(主宰:牧野富太郎)を創刊
1930年:芳香入浴剤「バスクリン」の生産販売を開始
1936年:株式会社化
1941年:津村重舎 (二代目)が社長に就任
1943年:満州津村順天堂を奉天に設立
1948年:土壌害虫駆除用農薬「D-D」の輸入販売を開始
1952年:中央区日本橋に本社竣工、中将湯ビルとして運用される
1954年:婦人薬「ラムール」発売
ラムール
1962年:津村交易株式会社を吸収合併
1964年:バスクリン静岡工場竣工
1972年:浴槽洗浄剤「バスピカ」発売
1976年:漢方製剤が薬価基準収載
1976年:津村昭が三代目社長に就任
1978年:株式公開
1982年:東証一部上場
1983年:富士枝急送株式会社(現株式会社ロジテムツムラ)に出資
1983年:茨城工場竣工
1983年:日本生薬株式会社を設立
1986年:千代田区二番町(通称:麹町・日本テレビ放送網麹町分室向かい)に本社竣工、移転
1986年:入浴剤「日本の名湯」発売
1988年:社名を津村順天堂→ツムラへ変更


1990年:深セン津村薬業有限公司を設立
1991年:Pacific Marketing Alliance,Inc.をパルタックとの合弁で設立(後にマンダム、エステー化学、太田胃散、キンカンも出資)
1992年:ツムラ日本漢方記念館開館
1995年:風間八左衛門(初代津村重舎の孫)が四代目社長に就任
風間八左衛門 1996年:3月LinkIcon小柴胡湯事件
1997年:創業一族の津村昭(前社長)が巨額債務保証で特別背任罪で逮捕(LinkIconツムラ事件)。
1999年:行動勲章「ツムラスタンダード」を制定
2000年:上海津村製薬有限公司を設立
2000年:TSUMURA USA,INC.を設立
2004年:創業一族以外で初の社長誕生(芳井順一)
2005年:日本生薬株式会社を吸収合併
2006年:家庭用品部門を会社分割により分社化(社名:ツムラ ライフサイエンス株式会社)。本社ビル及び六番町ビルを売却
2007年:港区赤坂に本社を移転
2007年:Pacific Marketing Alliance,Inc.の持分をJFC INTERNATIONAL INC.(キッコーマングループ)へ売却。
2008年:家庭用品を扱う子会社であるツムラ ライフサイエンス株式会社の全株式を投資ファンドのWISE PARTNERSへ売却し、同社はツムラから独立。
2009年:ツムラ ライフサイエンス株式会社はWISE PARTNERSの子会社と合併し、ツムラ ライフサイエンス株式会社の現経営陣や従業員の一部が自社株取得 (MBO) により資本参加。
夕張ツムラを設立 夕張ツムラ
2012年:新社長誕生(加藤照和)

 漢方薬で独走のツムラ

 シェア8割、"ガリバー"状態の背景

ツムラは漢方薬の最大手です。医療用漢方薬では8割以上の市場を占めるガリバーです。
ガリバー
売り上げは948億円、経常利益は153億円。売り上げのうち医療用の漢方薬は約830億円と過半を占めます。シェアは8割とされますから、漢方薬市場は約1000億円です。現在、薬価収載されている漢方薬は148品目ですが、ツムラでは129品目を扱っているダントツのトップ企業なのです。

ちなみに一般向けの漢方薬はツムラとクラシエ(旧カネボウ、葛根湯などで知られる)の2社で占めています。

これでもわかるように漢方薬市場は寡占であり、それは新たな参入が難しいということです。そのトップ企業のツムラはライバルもなく独走状態は変わらないということです。

漢方薬というのは一般の医薬品(西洋薬ともいう)とまったく違った特徴を持ちます。まず、特許に守られている医薬品と違って特許がないです。千年以上前から知られている成分だけに特許の概念に合致しません。だから参入は容易なように思えますが、成分が一種類で分析が容易な西洋薬に比べて、一つの生薬でも複数の成分を含んでいて、分析や生産が難しいです。しかも、複数の生薬を混ぜて(合方)、一つの漢方薬にすることも多いです。つまり、西洋薬と違って、安定的な品質を確保することが難しいのです。極端に言えば、大量生産になじまない。こうしたところがら、新規参入はもちろん、ジェネリックもできません。漢方薬のジェネリックは聞いたこともありません。

同じ理由で、ある漢方薬が疾病に効果があるとわかっていても、その漢方薬のどの成分がどう有効に働いているかがわかりにくいのです。効く人もいれば効かない人もいます。だから治験や臨床試験などで論理的に有効性が確認できないのです。西洋医薬のようにピンポイントで効能を持つという性質のものではなく、経験則に頼らざるを得ないのです。そのため、どうしても民間医療の域を出ることができないでいました。治療ではなく、予防医薬という形でしか捉えられません。つまり処方する病院や医師が少なかったということです。

 漢方薬市場への追い風を受けて

ただ、医療用漢方薬の市場もツムラなどの努力で最近では認識が変わりつつあり、処方する病院も増えています。特に西洋医薬では対応できない症状に効能を持つ漢方薬が知られてきており、ツムラではこうした漢方薬を中心に病院向けのMRを増強して、普及活動を強化しています。

西洋医薬にない効能を持つ漢方薬は、不眠やはいかい、幻覚など認知症の周辺症状に効果がある「抑肝散」、機能性胃腸症などに効く「六君子湯」、外科手術後の腸閉塞などを改善する「大建中湯」の3種で、今後、より多数の臨床データを採っていき、漢方薬処方に抵抗のある病院の医師への周知を徹底させていく方針です。

普及は徐々に進みつつありますが、本格的に採用する医療機関はまだまだ少ないです。つまり市場が小さいということで、新規参入にうまみがないのです。こうした理由からも、新規参入が難しい分野なのです。ツムラの独走状態は当分続くと思われます。

しかも、ツムラに追い風が吹いているのは医薬品市場が縮小していく中、医療用の漢方薬市場が成長しているということです。年間8%以上の伸びを見せている成長市場なのです。寡占構造の成長市場だというわけで、ツムラはその追い風を存分に享受することになります。

こうした状況はツムラも認識しており、このほど同社ではバスクリンなど入浴剤を扱う分野を切り離し売却しました。漢方薬に経営資源を集中するためのリストラです。

売却したのはツムラライフサイエンスという子会社で、主に入浴剤を扱っていましたが、この子会社がツムラの保有株すべてを買い取ってMBOをかけることになります。

バスクリンという強固なブランドを持ち、売り上げも100億円規模です。入浴剤の国内シェアは2割強と、花王に次ぐ2位をキープしています。この有力事業を惜しげもなく外に出すところにツムラの漢方薬にかける執念を感じさせられます。

 将来の高い可能性を秘める漢方薬

漢方薬は中国で千年以上前から伝わっている民間療法で、原料は草の根や菌、キノコなどの生薬です。わかっているだけで150種類程度あるが、同じ原料でも産地や部位など細かく分かれさらに配合させたりすれば10万種くらいになるといいます。現状ではそのすべてが把握されているわけではありません。

西洋医薬のシーズ発見から医薬品開発と通じるものがある。論理的な西洋医薬と経験則の漢方薬との違いだけです。

西洋医薬もボルネオやアマゾンのジャングルなどから天然のシーズを発見することから始まる。アスピリンの原料はアマゾンの密林で採れるシダレヤナギの一種だったり、ペニシリンは青カビの一種から作られ、アステラス製薬の免疫抑制剤プログラフはボルネオの熱帯密林で自生するカビの一種だったのです。

こうした天然のシーズはやみくもに探しても発見できるわけではない。それこそ砂漠から針一本を探し出すようなものだ。ではどうやって求めるかというと、現地の原住民たちから情報を集めるのです。彼らの呪術や民間療法で、熱が出たらこの木の根を煎じて飲ませれば治るというような情報を得て、その木の根から成分を抽出する(先導化合物Hリードコンパウンドという)。それを分子レベルで毒性を薄めたり、大量生産に適するように加工を加えて、初めて医薬品としての実験段階に入るわけです。

漢方薬も同じです。実験の代わりに時間をかけての経験則を積み上げるという手法の違いだけです。
原産地の中国では数千年の文化的歴史があり、それは漢方薬という形で連綿として伝えられてきました。

たとえば冬虫夏草。蛾や蝉、蟻、蜂などのさなぎや幼虫に寄生するキノコのことで、清王朝のころから不老不死の薬草として皇族や特権階級の間で珍重されてきた。これが数十種類のアミノ酸やビタミン、ミネラルなど微量元素などを豊富に含んでいることがわかっており、滋養強壮に効くという漢方の効能だけでなく、日本の金沢大学の研究によって、免疫力を高める薬効メカニズムが解明されている。この冬虫夏草は中国で約350種類あるといわれ、その成分分析から医薬品への応用も期待されている(漢方薬の材料となる薬草は吉林省、四川省、雲南省、貴州省、広西省、内モソーゴルなどが産地)。

将来の漢方薬の可能性はきわめて高いわけでして、袋小路に入りつつある現在の西洋医薬の開発システムとはまったく別の次元のものとして期待されます。ゲノム創薬の開発手法が確立すると、原料としての漢方薬はより重要性を増す可能性もあるし、現在でもオーダーメイドで処方される漢方薬は体系的にその手法を確立していけるでしょう。

こうしてみると漢方薬トップのツムラは他の追随を許さないノウハウを蓄積しているわけで、ブロックバスター医薬品一つで爆発的な企業の成長が可能な他の西洋医薬品メーカーとは違うビジネスモデルを構築しているといえます。

 2016年~2018年のツムラ

 医療用漢方薬専業が孕む「グローバル・ニッチ」の限界

長期経営ビジョンで「グローバル・ニッチ」を謳う「ツムラ」には、「成長鈍化」という言葉が似合う。ニッチとはいっても、医療用漢方薬で8割のシェアを握る独占状態であるにもかかわらず、業績がパッとしないからだ。

 2017年3月期の第3四半期累計決算では、売上高こそ1・6%増の879億円だったが、営業利益は139億円、経常利益は146億円と、どちらも前期比10%を超える減益だ。 

 年間予想でも、売上は1154億円と微増だが、営業利益は145億円と26・9%減の大幅減益となる見込みだ。ここ数年、売上は微増ながらも大幅減益続きの決算に「成長がピークに達したのではないか」という声さえ聞こえてくる。勿論、ツムラが手をこまぬいているわけではない。

 加藤照和社長は16年5月、16年度から21年度までの6カ年「新中期経営計画」を発表した。芳井順一前社長から引き継ぎ、12年に制定した「2021年ビジョン」なる長期ビジョンの第2期、第3期に当たる経営計画だ。

 しかし、中身は病院、開業医、診療所へのプロモーションであり、①漢方市場の拡大と安定成長②収益力の継続強化とキャッシュフローの最大化③中国における新規ビジネスへの挑戦という三つの施策を掲げたもの。今まで進めてきた2021年ビジョンをそのまま継承してきたにすぎない内容に、不満の声が株主から上がった。

 加藤は風間八左衛門元社長と共に旧第一製薬からツムラに移り、経営を建て直した芳井前社長の〝秘蔵っ子〟と言われ、12年にバトンを受け継いだ。就任した時に芳井前社長の路線から、さらに一歩進んだ積極的な経営を期待されていたのだ。

 もちろん、この医療機関に対するプロモーションや漢方医薬教育支援が無意味というわけではない。ツムラは08年に、1930年から取組んできた入浴剤の「バスクリン」事業や家庭用品事業を売却、医療用漢方薬専業に舵を切って以来、「抑肝散」「六君子湯」「大建中湯」の3処方を中心にプロモーションを続けてきた。その甲斐あって、薬価切り下げがあっても売上を微増させてきた実績がある。高齢者ほど漢方を好む傾向があり、近年、漢方医が診察する診療科が増え、それなりに賑わっている。

 25年には団塊の世代が75歳以上に達するというのにもかかわらず、医療用漢方薬を独占するツムラの業績が伸び悩むのは、なぜなのか。

 3代目社長が起こした特別背任事件

ツムラは、奈良県から上京した初代の津村重舎が明治26年(1893年)に東京・日本橋に「津村順天堂」を開店、奈良に古くから伝わる民間伝承薬に改良を重ねて販売したのが始まりだ。

 その時に売り出した婦人保健薬「中将湯」が馬鹿当たりして成功。1900年には中将湯を精製する時に出るカスから作った入浴剤「くすり湯浴剤中将湯」で再び大当たりを取る。くすり湯浴剤中将湯は改良を重ねて「バスクリン」になるが、これが日本初の入浴剤で、ブームを作った。

 しかし、ツムラはバブル崩壊後、一気に倒産の危機に見舞われる。薬価引き下げに耐えるため、雑貨販売、美術品の輸入販売、化粧品進出など多角化を進めたが、バブル崩壊でこれらの事業が赤字になったのだ。

 津村昭が3代目社長に就任したのは76年。この年に医療用漢方製剤は保険収載となり、「バスクリン」と共に「漢方のツムラ」として急成長を遂げた。だが、趣味人としても有名な津村は、次第に趣味に明け暮れるようになり、自宅を改造して地下に音楽室を作り、ギター三昧に耽っていく。揚げ句の果てにバンド仲間を役員に登用するなど、公私混同の経営が続いた。

 また、会社の資金を湯水の如く新規事業に投入していった。後に元関連会社を舞台にした70億円に上る乱脈経理で東京地検特捜部により特別背任で逮捕される事件を起こす。

 この窮地を救ったのが、津村のいとこに当たり、当時、旧第一製薬常務だった風間八左衛門の社長就任(95年)だ。同時に、風間の部下だった芳井が取締役として加わり、経営を建て直した。第一製薬と三共が合併し、第一三共となった時、ツムラもこの両社の合併に加わるという話もあったが、第一製薬の反対もあり実現することはなかった。

 新経営陣の下、ツムラはバスクリン事業をはじめ、生薬分包機事業や生薬によるリサイクル堆肥、植物活性剤などの農業資材事業、さらに陰圧式勃起補助具などという医療機器事業も売却し、医療用漢方薬事業一本に絞った。

 同時にコンプライアンス重視を掲げ、二度とトップによる公私混同経営が出ない組織作りを打ち出したことで信用も回復した。

 加えて、追い風も吹いた。漢方薬ではライバル会社に成長していた旧カネボウが乱脈経営で破綻したことだ。主力の化粧品は花王のものとなり、医薬品や日用品はファンドの手に渡った。今は「クラシエ」の社名に変わり、漢方薬市場で成長しているが、旧カネボウの破綻で、ツムラは医療用漢方薬市場で独占的地位を占めた。

 そんな環境下でも業績が伸び悩む状態では、「成長のピークを超えた」と言われてしまうのも無理からぬことだ。

 漢方原料価格の高騰と円安で減益

ツムラが営業利益減の理由に挙げるのは、薬価引き下げと漢方原料の高騰、円安による為替差損の三つだ。

 一つ目の薬価だが、ツムラはかつて、漢方薬は薬価改定にふさわしくないと、厚生労働省に引き下げをしないように求めたことがある。無論、厚労省は無視。漢方薬の引き下げ幅は他の医薬品の平均と比べてはるかに低く、影響が少ないからだ。

 減益の残りの要因は原料生薬の高騰と円安だ。漢方薬の多くは中国から輸入されているが、中国での原料生薬は10年ごろから投機も加わって価格が高騰している。漢方薬で使用量が多いのは「甘草」や「芍薬」だが、甘草は砂漠地帯で生育しているので、原料生薬の価格が上がると乱獲が始まり、それが収穫減を招き価格が上がる。そこに投機が加わり、さらに中国政府が輸出を制限していることで、原料価格が乱高下を繰り返してきた。

 ツムラは安定供給のために北海道夕張市で国内栽培を手掛けた。現在は10種類、700㌧程度の生産だが、20年には倍の二十数種類2000㌧に生産量を引き上げ、使用する生薬原料の25%程度を国内生産にする計画だ。

 だが、生薬は栽培が難しい。気候や土壌によって成分が異なり、天候に大きく左右される。

 年1回の採取だけに、土壌を改善し栽培法を確立して安定した品質を維持出来るように育てるには、少なくとも10年近くはかかる。その上、人件費が高い日本での栽培、生薬製造コストが輸入原料の価格に対抗できるかは難しい。生薬原料価格は当分、売り手市場が続きそうであり、ツムラにとっては高値輸入を強いられる状況にある。

 加えて、日本銀行の異次元の低金利政策に伴う円安の影響が大きい。一時的に円高に振れても、アベノミクスの基本は円安である。麻生太郎内閣とそれに続く民主党内閣時代では1㌦=80円台だったが、安倍晋三内閣になると、1㌦=120円まで進んだこともある。生薬原料の輸入はドル建てで行われるから、8割を輸入する漢方薬メーカーは原料高に見舞われる。

 一方、ツムラのような医療用漢方薬メーカーは薬価制度で価格が決められているため、値上げが出来ず、利益は薄くなる。アベノミクスが続く限り、ツムラは売り上げ微増でも減益を強いられる。

 もう一つ付け加えるとすれば、米国子会社が漢方処方の科学的エビデンスを得るために行っている種々の研究に費用がかかっていることだ。

 しかし、この窮状にツムラも手をこまぬいているわけではない。原料が高くなる分、製造工程の効率化を図ってきた。例えば、製造工程にロボットを導入して省力化を進め、24時間操業を行うと共に、ビッグデータを解析し、原料の在庫を適正化して、原料相場の高騰に備えている。

 刻み生薬市場に漢方製剤を売る困難

さらなる対策として、中国の広東省深?市と四川省に生薬原材料を調達する子会社(同省は非連結子会社)を持ち、上海には両社が調達した生薬エキスを乾燥・粉末化してツムラに送る製造・販売会社を持っている。

 生薬原料の調達システムについても、16年5月に上海に新たに中国子会社の統括会社設立を決議した。統括会社は単なる持株会社ではなく、生薬を配合した顆粒の漢方製剤化に取り組んでいる。人件費が安い中国で漢方製剤にすることで、コストを下げる作戦だ。

 同時に、上海の統括会社は新中期経営計画で掲げる中国での新規ビジネスを担う。本場である中国の中薬(漢方薬)市場は、世界の漢方薬市場80億㌦の10%、ざっと8億㌦(約8800億円)市場と言われている。巨大市場だが、中国では症状や体質に合わせて数種類の乾燥生薬を刻んで煎じて飲む「刻み生薬」が普通だ。ツムラのようにメーカーが生薬を配合して製品化する漢方製剤を刻み生薬が多い市場に売り込もうという戦略は、刻み生薬に慣れきっている中国人の市場にどのくらい食い込めるのか、全くの未知数だ。

 ある商社マンは「富裕層の多い都会ではある程度食い込めるだろうが、庶民は安い刻み生薬を選択するだろう」と話す。

 日本ではプロモーションの効果で、漢方を処方する医師や漢方医が診察する漢方診療科を設ける病院も増えている。また、医療用漢方薬市場をほぼ独占するツムラ1社の努力で、同社の売り上げが1150億円まで拡大した。

 しかし、それで万全ではない。東日本大震災の折、被災地では漢方薬の提供が一時途絶えた。被災地のある医師は「普段は漢方薬も処方していたが、災害に見舞われた緊急時に必要なのはインスリンや喘息薬で、『漢方薬がない』と騒ぐ医師も患者もいなかった」と言う。

 「グローバル・ニッチ」のツムラの飛躍には限界があるようだ。

(敬称略)by 集中出版株式会社

 ツムラ本社の地図

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